2012年12月26日水曜日

『田中一光とファンシーペーパー その色彩と質感へのまなざし』:可能性と憂鬱

田中一光とファンシーペーパー その色彩と質感へのまなざし
「特種東海製紙 Pam東京」で開催された『田中一光とファンシーペーパー その色彩と質感へのまなざし』を観てきました。

田中一光さんは長年に渡り「特種東海製紙」の総合的なアートディレクターを務められました。『Pam』というのは「Paper and material」の略で、この展示スペースのネーミングもご自身によるものです。「デザインは社会的に機能していなければならない」という原則のもと、常に社会と企業と自分自身との関係を注視しながら、商品開発に積極的に参加されていました。その中のひとつ「特種東海製紙」では、顧問デザイナーとして多数のファンシーペーパーの開発に携わっています。コンセプト立案からネーミング、そしてプロモーションに至るまで、関わった仕事のあらゆる領域に前のめりに、積極的な姿勢で向き合っていました。

田中一光とファンシーペーパー 会場



★田中一光とファンシーペーパーの開発 年表
1971 レザック71
1975 レザック75
1980 レザック80つむぎ/もみがみ
1982 レザック82ろうけつ
1984 リバーシブル*/ウッド*
1985 ボス/リバーシブルブラック*
1987 TANT/カラベ(現ニューカラベ)
1988 みやぎぬ/江戸小染はな
1991 江戸小染うろこ/岩はだ
1992 レザック66増色/ルーセンスS/ルーセンスはな*/
      ルーセンスF*/ルーセンスR*/江戸小染かすみ/
      コルキー/トーメイあらじま/トーメイ新局紙/
      トーメイパミス
1993 木はだ*
1996 レザック96オリヒメ/Mr.B
1998 里紙/Mr.Bm
1999 マーメイド増色/TANT-e
2000 Mr.A(現Mr.A-F)/マザー*
2001 TANT-V/ミセスB(現ミセスB-F)/
      ルーセンスJr.はな*/ルーセンスJr.フラット*/
      ルーセンスJR.スモーク*/ルーセンスJr.R.
2002 ピケ*
                    (*印:現在廃品)

30年の間に開発された製品には、以上のものがあります。
「TANT」、「Mr.B」、「里紙」は、知名度も高くよく使用されている用紙ですが、中でも「TANT」は150色と色のバリエーションも豊富で、田中さんだからこその選定といえるでしょう。

会場には田中さんが開発された用紙と、使用例としてそれらが実際に使われた書籍や商品、ポスターなどが展示されていました。用紙の色味や質感と共に印刷効果や仕上がりを確認することができる貴重な機会で、加工された製品を観ると、完成形として生まれ変わったような新鮮さ、素材の持つ表情の豊かさを強く感じます。今では当たり前のように使われているファンシーペーパー高級印刷用紙も、デザインを制作する現場からの声が反映され、様々な過程を経て開発されたのだということが腑に落ちる、実りの多い展示内容でした。

日本の用紙は見た目の美しさはもちろん、質感や手触り、バリエーションなど、非常に優れていると常々思っていましたが、こういったきめ細やかな製品開発の背景を知り、改めてその奥行きの深さに感銘を受けました。もはや、製品開発に留まらず、文化そのものをアップデートしているような印象すら覚えます。例えば機能美を兼ね備えた用紙に効果的な印刷や加工を施すことによって、書籍や製品開発などの可能性も広がります。多彩な質感や色の展開は、背景に着物など日本特有の文化の影響が感じられ、日本の用紙は世界に誇れるものであることを再確認しました。

「iPad」を皮切りに「Nexus」、「Kindle」と様々なタブレットや電子書籍リーダーが近年、インターネット上では話題になっています。しかし実際にそれらが日本でどれだけの広がりを期待できるか、は未知数でしょう。無条件に楽観的になるほど見通しが良くもなく、悲観するほど売れないわけではない、といったところでしょうか。
仮に音楽ソフトがかつての「Vinyl」から「CD」、そして配信へと取って代わったように書籍の主流が電子書籍になったとします。そうなった時、世界に類を見ない、日本の見事な製紙技術が失われてしまうのではないか、という懸念を私は覚えずにはいられません。知識や知性と呼ばれるものの実像も、少なからず影響を受けると思われます。
しかし、紙でなければ実現できない表現方法を採用する場面もありますから、この先も紙の本がゼロになることはないでしょう。今回の展示会ではそんな懸念と可能性をない交ぜに感じさせられるような体験となりました。これもまた、用紙の持つ力に魅了された故のこと、でしょうね。

東京本社内にある「Pam東京」は、特種東海製紙の全製品を見ることができます。壁一面にファンシーペーパーのサンプルを収めた引き出しがあり、サンプルを自由に持ち帰れるようになっています。

※『田中一光とファンシーペーパー その色彩と質感へのまなざし』は、12月21日に終了しました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2012年12月12日水曜日

『デヴィッド・リンチ展~暴力と静寂に棲むカオス』 : 表現に強さを生むのは必然性

デヴィッド・リンチ展~暴力と静寂に棲むカオス
新作を準備中というデヴィッド・リンチ監督の写真・絵画展に行ってきましたが、意外な事に今回の展示は過去最大級だったそうです。また、10代後半の方が多く来場されていたのが意外でした。例えばパンクロックなどの音楽はいつの時代にも特定の年代に支持されるものですが、かつてはカルトヒーローだったリンチもそんなポジションに行きつつあるのかもしれません。

ところで、展示会のタイトルは『デヴィッド・リンチ展~暴力と静寂に棲むカオス』。らしいといえば、らしいですね。今回はキーワードになっている『暴力』『静寂』について、私なりに考えをまとめてみます。結論から書きますと、タイトル通りに『暴力』と『静寂』、対立するこの二点がリンチ作品のホネになっていると感じました。映画に最も大切なのは主人公と敵、善と悪といった『対立の概念』だそうです。しかし、リンチや映画に限らず、そもそも西洋社会の表現のモチーフのほとんどは『対立』だったりします。そこで今回は「デヴィッド・リンチの『暴力』と『静寂』という対立」に絞って、色々と考えてみました。

リンチの『暴力』について、私がまず思い浮かぶのは、最高傑作『マルホランド・ドライブ』のオープニング、クルマの衝突事故です。衝突事故は言うまでもなく一大事なのですが、その事故も素朴に演出してしまうと、「意外とこんなものか。思っていたほどの画じゃないね」という画面になりがちだと思うのです。しかし、リンチの演出は衝突事故のシーンで「過去にこれ以上、暴力的な事故シーンはなかった」と感じられる演出がされています。(なってしまう?)時間にして二秒もないですし、これは私だけの感じたインパクトかもしれません。しかしこの二秒こそがリンチの持つ表現のパワーをストレートに現している、他の誰にも真似できない一瞬ではないか、と私は思わずにはいられません。

リンチの『暴力』について、次に私が思い浮かべるのは60年代後期のロスを舞台にした犯罪小説です。ケネディ暗殺の真相だったり、ハリウッドのスキャンダルだったり、マフィアが暗躍する小説、作家で言うとジェームズ・エルロイ辺りでしょうか。日本に住む私たちには不条理な世界観に没入するようなリンチの映画は、あまり現実的には思えないかもしれません。しかし、リンチの地元、ロスの人にはとてもリアリティのある世界観だそうです。このリアリティの差異が、ジェームズ・エルロイなんかの小説を読んでいればロスという土地にあるのは間違いないと感じるのですが、それ以上に重要だと思われるのがリンチ特有の恐怖感、『一皮めくれば常に別の世界がある』です。

リンチは幼い頃、グリーンピースが食べられませんでした。「おそらく、外側は張りがあって固いのに、中から飛び出てくるものは違った質感だからだろう」と本人は想起していましたが、実は『一皮めくれば常に別の世界がある』というこの恐怖はリンチの全作品を支配しています。『ブルー・ヴェルヴェット』のオープニングでも美しい芝生の下に蠢く虫のカットを入れていますが、この『一皮めくれば常に別の世界がある』という感覚は、先程の犯罪小説の『面白さ』のキモになっているもので、今回の写真・絵画展はそれら『別の世界』の破片を集めてきたような印象でした。


デヴィッド・リンチから、この展覧会に寄せたメッセージ作品。

『暴力』に対して、『静寂』はサバイバルの手段です。例えば『ワイルド・アット・ハート』のローラ・ダーンの台詞「この世界はワイルドなことばかりで……」や『イレイザー・ヘッド』のラジエーターの中の世界を参考にするのが良いでしょう。また、リンチが着想を得る方法が『ビッグ・ボーイ(ファミレス)でたっぷりの砂糖を摂って妄想に耽る』というやり方であったり、禅を習得しているという事実から、彼が『静寂』をとても大切に思っている事がわかります。世間で思われている『暴力』的、『奇異』なイメージは、彼自身ではなく、彼の恐怖する対象なのでしょう。

今回の展覧会の会場では2012年、ロンドンのフリーズ・アート・フェアで開催されたメモリー・マラソン2012のために制作された『Memory Film』という四分程度のショートフィルムが上映されていました。空爆のイメージに眼を覆っているリンチのもとにゴッホの自画像がヴィジョンとして降りてきて、彼が眼を開くという内容です。このショート・ムービーを観ていると、「ネットを使って効率良く情報を得る」みたいなライフスタイルは一見賢く思えるだけじゃないか、と思いました。何か疑問があったら考える前に脊髄反射的にすぐググる、みたいな習慣は悪習かもしれませんし、ネット上での議論はおよそ生産性のあるものではないでしょう。「自分自身を頼りに経験や技術に聞いてみるのではなく、自分以外のなにかに判断を委ねる習慣」、つまり他者に依存しすぎると、限りなく自分自身というものが希薄になっていきます。そういった希薄さはコミュニケーションに支障を来し、デザインすらもありきたりのものにしてしまう気がします。乱暴に言ってしまえば、「誰が、何を作っても関係ない」もので世界が溢れ返って、本来なくてはならないものが見えなくなって、結果として誰も彼も無価値な世界になってしまうという事です。

リンチの描く衝突事故がいかに衝撃的な衝突に見えるか、その非凡さについて先述しました。しかし、彼は不必要に観客を驚かすつもりはないのでしょう。事実、インタビュアーに彼が写真の素材に選んだヌードについて、「題材としてはありきたりではないか」と聞かれた際、リンチは「…やりたいと思ったらやってみるのが一番だ。まわりがどんなふうに受け取るだろうかとか、驚かせてやろうとか、考え始めたら、すでに方向を誤っていると思う」と答えています。

それでは彼の表現の持つ強さ、決して自分自身が希薄になどなっていない彼の表現方法とはなんでしょうか?「世界とは『一皮むくと常に別の世界がある』、見た目通りではない不安な場所である事を受け入れ、その不安に対処するために誰にも頼らず、自分自身を頼りにする事をまずは心掛ける事。自分自身を頼りにする事とは、まずは自分に問いかけてみる事」そんな何かではないか、と私は思います。よく、成功している会社のユニークな一面なんかがTVで紹介されていますが、そういった会社の経営者の方は自然とリンチと同じ事を実践されているのでしょう。そこに至るまでは多くの不安に悩まされ、二度と味わいたくないような挫折や気が遠くなる程の試行錯誤を繰り返されているに相違ありません。その過程を経てユニークさを獲得したのであって、どこか成功している会社の、例えば有名なGoogleのオフィスのユニークなデザインだけを真似てもGoogleと同じ結果は出せないのではないか、と思います。だから、「日本から何故、AppleやGoogleが生まれないのか?」とかそういう記事を読んで日本はもうダメだ、とか思わない方が良いですね。AppleはAppleだからAppleなのであり、GoogleはGoogleだからGoogleで、他の誰もAppleにもGoogleにもビートルズにもメッシにもピカソにもなれないのです。

『暴力』(不安や恐怖など)には『静寂』で対峙する。『静寂』は自分自身の中にあるのだから、むやみやたらと検索したりしないでまずは自分の中に解決法を探す。そこから生まれた答えや表現だけが、現実に力を得る。なぜなら、そういった答えや表現にはそれらが生まれいずる必然があり、貴方自身に最適化されたものなのだから(これはデザインは問題解決のための手段である、とするデザイナーに偏ったものの見方かもしれません)。

※『デヴィッド・リンチ展』は、12月2日に終了しました。

前回のデヴィッド・リンチについての記事はこちら

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー