2012年7月17日火曜日

「デヴィッド・リンチ展 “David Lynch”」:アートとデザインの差異について


デヴィッド・リンチ展 “David Lynch”
映画であれ、絵画であれ、写真であれ、デヴィッド・リンチの作品について語る事は無意味です。自身の作品の持つ不可解さ故、「あれはなんだったんですか?」的なインタビューを受ける度に、本人が言っているのだから間違いは無いでしょう。

「批評や答え合わせは無意味だ」というのは一見、突き放したような言葉ですが、実はこの言葉には続きがあります。リンチは「作品が不可解であれば、不可解であるという印象を受けた、自分自身の印象をもっと尊重してください」という事をインタビューで繰り返し答えているのです。「あなたにとって何よりも大切なのは、あなた自身ですよ」という事ですね。

自分とは利害関係が一致しない、立場が違う相手を尊重し、存在を認める事、他者を想定する事は、民主主義の持つ或る一面だと思います。「あなたがイレイザー・ヘッドを観てどう感じようと、作者であるリンチがこう言っているのだから、あなたの解釈は間違っている」というのではなく、「作者である私の言葉よりも、作品に触れてあなた自身に起こった感情や印象をなによりも尊重してください」という事ですね。

答え合わせではなく、自分自身を尊重するとどういう良い事があるのでしょうか? 例えば、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を頑張って読破してはみたものの、本を閉じた時に感じた感想が「さっぱりわからなかった」というものだったとします。それではその読書に費やした時間は無駄だったのでしょうか? 私はそうは思いません。一見、『わからかった』という経験の積み重ねが、知性の厚みを作るような気がします。リンチ作品に関しても、作品それ自体から受けた印象が財産であり、技法云々はその他の些末なトピックに過ぎません。

クライアントがデザインに期待する役割には、問題解決の領域が多分に重なっています。チャールズ・イームズのように「デザインとは、問題解決の手段だ」と言い切っている人もいます。
例えば、日本語を解さない外国の方が日本で交通事故に遭わないように交通標識や信号機の表示をデザインする事。例えば、多機能化して操作が複雑になりすぎた携帯電話を使いやすくする為に、物理的なボタンは一つに絞り込んだiPhone。
映画のような芸術作品とデザインという仕事の差異はここにあり、逆に両者に通底するのは『ものを伝えようとする意志』でしょう。デザインで情報をより多くの人に、的確に伝える為には他人と自分の解釈の違いに寛容になる事が必要なんでしょうね。「私はこう感じたけど、なるほど、あなたはそう感じたのですか」という認識を幅広く持つ事の大切さ。そんな事を再確認した展覧会でした。

最後に、もう一つ。
デヴィッド・リンチはどうして『ツイン・ピークス』はあんなにヒットしたのでしょう? というインタビューにこう応えています。

「わからない。作品に起こる事はコントロール出来ない」


この「デヴィッド・リンチからのメッセージ」も作品のひとつです。


「デヴィッド・リンチ展 “David Lynch”」は、「8/ ART GALLERY/ Tomio Koyama Gallery」で、7月23日(月)まで開催されています。